結果を目的とせず ただ責務へ突き進むのみ
壹-ichi-先生
『私立VRC学園』12期の授業としては最終日となりました。
最後の授業は 壹-ichi-先生 による いっぱい褒めよう!応援しよう!
でした。主にクリエイターに対して行える最も基本かつ誰でも行える還元を、より積極的に推進していこうという内容でした。
失礼を承知で先に結論を紹介してしまえば、授業の内容は上記の内容で完結します。
とかく多くの人が感想を伝えずにいたまま、クリエイター本人にとっては反応が得られなかったと思い込んで消沈し、身を引いてしまったなんていう話も聞いたことがあるかもしれません。
授業の中で壹先生は、今回の議題として特に 25歳以下の若手駆け出しクリエイター に対象を絞って講義を進めていました。これは普段の「褒める活動」をそこに絞るという意味ではなく、あくまでも授業の議題として対象を明確にしたものです。
若手のクリエイターに着目する理由としては、ネットインフラの発達により「はじめから全世界という大舞台に立てる可能性(恐れ)が整った状況を若くから経験していること」があるようです。
年齢がバレる話になってしまいますが、今や世に広まっているデジタルな…… 特にエンタメ方向の文化と技術について、ある世代以上の人たちにとっては「荒野にさまようヒナからだんだんと(共に)育っていった」というような見方になっているかと思います。
厳密な史観は脇に置いてゲームとネットを眺めてみれば、小さいころにファミコンと電話からはじまり、ポリゴン表現とダイアルアップ通信、そして共有を前提とした一大ネット文化への融合と、共に見てきていたことで その弊害も段々と認識できる立場にいた のは事実ではないかと思います。
私自身、そうした段階的な経験がなければ、今の世の中でSNSの炎上を引き起こしていたかもしれないと思いますし、似たように考える方もたくさんいるのではないでしょうか。
若手クリエイターは生まれた段階でこのような状況が整って(しまって)いたので、失敗によるリスクを肌身で感じていることになります。それは危機意識として働く面はあるものの失敗への恐れにもつながるとのことでした。
更に、残念ながらインターネット環境は悪意の整備を進めてしまっている現実は存在します。十分な自衛で何とかなるとはいえ、若さは悪意を真正面から受け止めてしまいかねないというリスクもあるようです。
そして壹先生の主張は続きます。それは 若いクリエイターは世界の宝である
というものでした。
成功者であるか駆け出しであるかどうかに関わらず、いまこの瞬間に存在する若者は彼らしかいません。「組織に新しい風を~」などというと、古い体質の会社で聞こえてくる話に思えるかもしれませんが、実際に世界の新しい動きへ最も敏感な反応を示すのは彼らで間違いないのだと思います。
壹先生は、若い人たちはそうしたことを容易に共有し、それらは社会貢献や問題提起にも育ちえるもので、雇用の創出などの実際的な利点も生み出せるほどなのだと言います。
私のクラスの副担任をしてくれたオレレキ先生とはかつて学園の同期生であったようです
しかし、多くの場合に反応を得られるのはごく一部の成功者となってしまうのが現実です。それは作品の購入や推し活なんかで可視化されますが、壹先生の主張を借りれば、まだまだ「世界の宝が放置されている」ということなのかもしれません。
クリエイター同士であれば繋がりやすい側面もあり、切磋琢磨の要素もあるでしょう。ですが、授業に参加している私たちはそうとは限りません。いわゆる「一般の人たち」ができることは何があるのでしょうか。
それこそが、この授業でのメインタイトルである いっぱい褒めよう!応援しよう!
となる訳です。
やれることはシンプルですが、授業の後半では「褒めることの利点」がひたすらたくさん紹介されました。決して無駄ではないのだから、どんどんやっていこうってことですね。
私自身は昔から常日頃「創作的なことができる人はそれだけで凄い」と思っています。自分ではちょっとできる気がしないからです。いつも消費側の人間だなと感じています。
そこに後ろめたさはないですし、むしろゲームをたくさん買って楽しんでいるのですが、前向きな評価を持ったとしてもそれを伝える行為を重ねていただろうか?と自問すればそれほどではなかったと思います。
私はゲームのレビューを書くのが趣味ではあるのですが、数はそれほどではありません。Steamでレビューを書いたことで多くの反応をいただいたことはありますが、そういえばその時はレビューとしての「紹介」の体裁を整えていたとはいえ、かなり前向きな内容をつづっていたような気がします。
その後、縁あって企業が運営する媒体で何度かライターとして書いたことがあるのですが、仕事として「分析」に目を向けすぎていたのかもしれないなと、壹先生の授業を受けながら考えていました。
メディアに掲載される内容として技術的に中立であろうとする意思と、読者と製作者の間に立つ書き方であろうとする視点とがそうさせたように思います。私自身は良い側面を比較的並べる方だと思っていたりしますが、いくつかの有名タイトルでは厳しめの内容で終始してしまっただろうかと思いもします。
感想を向けるとき、作っている人たちが目の前にいるかのように、具体的な想像をして書いていただろうかと、そんな反省を与えていただいた授業でした。
授業中に行われたグループワークは二人一組になって お互いを褒めあいましょう
というものでした。この授業が最終日であったこともあり、それなりの期間を過ごしてきたクラスメイトではあるのですが、改めてやってみようとするとかなり恥ずかしい気がします。
それと同時に、自分がどれだけ人のことをあまり細かくみようとしていなかったか、を突きつけられたような気もしました。もう若くないせいなのかは分かりませんが、人付き合いのリスクを避ける方を先に考えてしまいがちなのだと思います。
なんとなく気だるげで脱力した態度を取ってしまうのも、このあたりにあるのかもしれません。もっと積極的に声をかけ、その勇気を鍛えるためにという目的も、学園への参加にはあったことを思い出す必要がありそうです。
無意識に人との壁を作ってしまうのは、私の悪い癖ですが、それに守られた経験があるのも事実で、そう簡単なことではないだろうと感じます。
実際にやる訳ではないにしても、あえて目の前で「具体的に褒めてみよう」と考えることは、その人をきちんと見ていたかをストレートに問われますので、人知れず意識的に自分へ取り入れてみたいと思います。
これで授業はすべて終了し、残すは卒業式のみとなりました。
すべての関係性をフラットな形にしてスタートする学校という形式は、実際にかなりの価値があると感じられた2週間でした。ですがそれだけに 高度 だと感じます。
いろんな人間関係を経た後だからこそ、様々な覚悟や心の準備の上で臨めた訳ですが、実際の小中学校という場に、子供の年齢にも関わらず手放しで入っていくのは危うい面も当然出てくるだろうと思わずにはいられません。
幸いにして私自身は小中学校でそれほど変な経験はないのですが、本来はもっと多くの様々な大人によるバックアップが必要であろうという思いが強くなりました。
なぜなら、すでに大人であるVRCプレイヤー100名を2週間疑似的に体験させるだけでも、かなりの人数が支えてようやく実現できるようなものだからです。
況や、実際の公共教育はその子供の人生を預けるレベルの出来事で、それも何年もかけて行われる事業ですから、私たち以上のものが必要となるのは明白でしょう。
大人が大人にやるだけであれば、うまく善意をあつめて推進できるかもしれません。ですが、本来の学校教育の場ではひとことに善意だけでどうにかなる場でもない気がします。
そのように言ってみたところで、私には具体的な案が考えられる訳でもないのですが……
対等な関係を築けるというのは、想像以上に贅沢で、幸せなことなのかもしれません。
どれだけ普段の私が、人との関係性を属性で見ていただろうかと痛感します。誰がすごいからとか、自分には何もないからとか、そういうことを超えて…… いや、前提とせずにただ同じ時間を過ごした友人として会話できる関係性。
人の世界だからこそ、それがずっと続くわけでもなければ、しなくてはならないものでもないのが理解できるだけに、良き関係性が良き形で長く続いていけばいいなと願います。