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奨学金の返済を終えた

大学は中退で今は無職

001syousyo

奨学金の返済を終えた。

未来ある若者に何かを示そうなどという意図はないのだけど、いまこの瞬間、僕がどのような状況なのかを端的にお伝えすると「 学歴は中退で無職状態 」が明確な事実となる。

当時は何か大きな志を持って進学した訳ではなかったし、在学中も褒められた学生ではなかったと思う。なんとなくパソコンを使った関係の仕事に就ける道へ繋がったらいいなという程度の展望しかなく、高卒ではまだ働きたくないというワガママを言って、どうにかして情報系の学部へ進学させてもらったのだ。

現在はどうだか分からないけど、当時の奨学金はざっくり分けて「 誰でも借りられるけど返済が大変なやつ 」と「返済しなくてよかったり利子が低い優秀な人のためのやつ」があり、ご多分に漏れず僕は前者のおちこぼれな感じの方の奨学金を利用することとなった。

工業高校にいたので全然進学という感じではなかったし、そもそも勉強に打ち込むということ自体が好きではなく、それでも受かるような大学へどうにかして進んだ。しかも1年浪人している。

画像の金額を見て分かる人もいるかもしれない。私立の受かりやすいところに入るのであれば、それも工学系ともなるとその学費は安くはない。いわゆるMAXに近い月額の枠を選んだような気がする。

お金はおもったよりかかるんだ

都内に住んでいて何を甘いことをと思われるかも知れないが、親族という親族は首都圏にいたものの、みなそれなりに貧乏な感じだった。戦時をリアルに生き抜いた世代の祖父母だったから、僕から見た叔父叔母世代の兄弟はたくさんいたのだが、どこを見ても大学へ進学した人などいなかった。

つまり、僕は親族を挙げての「初の大学進学者」のような感じだった。

それが大きなイベントだったという訳ではないのだけど、それよりも大きな問題は誰も リアルな大学生活を想像できる人がいない ということだった。僕は実家の家計をよく知らなかったのだけれども、両親はかなり無理をしていたような気がする。たぶん、せめて長男だけは進学させねばとは思っていたのだろう。

実家からは遠かったので、大学からすぐ近くのとても安い寮に入った。

入学金と1年目の学費 を両親が出してくれたのは覚えている。そんなお金がどこにあったのだろうと素直に疑問ではあったが、国民政策金融公庫の学生ローンとして借りたと言っていた。

だが、両親の計略はその時点で力尽きてしまった。

いわゆる「(1年目の)学費」は心配しなくていいから、と言われて進学した僕は毎月の生活を奨学金でどうにかするという作戦で行けると考えていた。というか、それが一家の視野の限界だった。

月10万円の奨学金で、家賃は2万5000円。残りでどうにかする。やれないことはない、学生なんだから。そんなかんじ。

実際のところ、はじめのうちはけっこううまくやっていたような気がする。もともと貧乏生活には不安よりもむしろ楽しみさえ感じていたほどだ。

生活をはじめ、入学式を終えてはじめて僕は現実を知ることとなった。 教科書を全部自分で買わないといけなかった なんて。たぶん、入学関係の資料のどこかに書いてあったのだろう。本当に、今思えば情報弱者の塊のような家庭だった。

それでも日々の生活を進めていく中で、無理を通せばやれないことはないという光明は見えていた。

ある電話 が来るまでは。

仕送りって「する」もの

大学生の生活において「仕送り」という単語は、 されるもの というのが一般的だと思う。そう、親から仕送りをされる。生活費が振り込まれる。そういうものだと思う。僕の場合はそもそも奨学金で全ての生活をどうにかするという作戦だったから、仕送りはなかった。学生ローンを組むのが実家の限界だったのだから仕方ない。

ある日、親父から電話がかかってきた。珍しいことだ。

親父は「仕事をクビになった」 と言った。そして、 少しでも構わないから毎月お金を送って欲しい 、と。

その日から僕は 実家へ仕送りをする学生 となった。その財源は?もちろん奨学金でしかない。

そこからの生活は正直ちょっと記憶があやふやな部分もある。当然アルバイトもはじめた。まだ実家にいたころは「学業に専念すべきだよね」と両親も僕もするつもりはなかったが、それでは当然足りないからだ。

毎月3万は仕送りをしようというような感じだったと思う。できない月もあったような気がする。

寮は家賃を寮母さんへ手渡しするシステムだった。その時、おまけで2キロくらいのお米をくれた。

財布の中に5円しかない時期が1週間ほど続いたことがあった。部屋にあった丸い小さなジップロックへ米を詰め、もう一つのジップロックへ溶かしてない味噌と乾燥状態のふえるワカメちゃんを入れて大学へ持っていった。

大学の学食には給湯器がある。水とお湯とお茶が出るアレだ。周りの友人が定食を食べる中、僕は片方のジップロックへお湯を入れて味噌汁にし、米と食った。そういう生活が時々あった。

でもどうにかして生活は続いていた。なんか音楽系の部活とかもやっていたし、ゲーセンとかも行っちゃってた気がする。若いってすごいな今思えば。

とにかくお金がないし、なんだか精神的に余裕がなくて、予測できるお金も予測できなくなっていった。期が変わればまた教科書を買うタイミングがやってくるが、 その時になって足りないことに気づく といった始末だった。全然冷静じゃなかったのだと思う。

親父はなんとか次の仕事を見つけていたが、仕送りは続けていた。

悪いことは重なるもの

「その生活」にもなんとか慣れて安定していった。

3年次、当時の学部長が担当していたゼミへ縁あって履修し、なんだかんだ真面目に打ち込んだ僕はかなり気に入っていただけた。学園祭で出し物を企画し、学部長に来てもらおうと直接教授の部屋のドアを叩いて話をしに行ったらとても喜んでくれたのを覚えている。今だから言えるが、学部長は「飲むか?」といって部屋のスミからウイスキーを取り出し振る舞ってくれた。

大学のルールとしてはできないことだとした上で「気持ちの上では研究室で君の席をあけておきたい。確定したことは言えないが、 ぜひ4年生になったら僕の研究室を希望してくれ 」と言ってくれた。そういう教授であった。

けれども僕は3年次の冬、真夜中にぶっ倒れた。先輩が車で病院に連れていってくれ、 深夜のその場で開腹手術 となった。クローン病という国指定の難病だった。小腸の一部が破れ、お腹に漏れ出したものが膿となっており、医者によれば切り開いた瞬間一気に飛び出してきたのだという。腹膜炎一歩手前、まさに九死に一生を得た。

その前後で体調を崩しがちだったのだけど、これが原因だった。お金のない生活で正直勉強どころではなく、単位も苦しく精神は張り詰めていた。目が覚めたベッドの上で僕は 「ああ…… 『できない』というふうになってもよかったんだ」 と思い、一気に気が楽になっていったのを覚えている。

そんなだから難病の事実自体にはあまり驚きも気落ちもしていなかった。むしろ親族や周囲が慌てていて、心配をかけてしまったなと思う。

2年次の学費は、また何かの借金で支払ったと聞いていた。両親は心配をかけまいと思ったのか、今でもその詳細は知らない。実は3年次になった時は学生課へ行き、支払いを延期してもらう手続きをしていた。今であればそんな状態なら続かないと判断できると思えるものの、本当にその時はなんとかなるとしか考えていなかった。

食事が停止されて首筋に大きな点滴を刺し、その栄養だけで生きて2ヶ月ほど経った頃、母親が見舞いに来て言った。「 退院できたら大学を辞めて働いてほしい 」と。あまりにも苦労を重ねてしまった僕の母の姿だった。

親父はまた転職 を余儀なくされていた。そして 妹の進学もこのタイミング だった。 入院中に祖父が亡くなった 。だから、とにかくお金が必要だった。もちろん、僕は大学にしがみつくつもりなどもうなかった。

祖父の亡くなる時は救急車で運ばれたらしい。そこに同行した母へ向かって、祖父は救急車の中で僕の名前を言い、退院に向けたもう一度の手術は大成功なのだと叫んでくれたという。

親父はそんな状況のさなか友人に相談をされ、事業を起こすからと車を購入する連帯保証人になってしまった。「よくある話」なのかもしれないが、その 親父の友人氏は車を持ったままどこかへ消えてしまった。残ったのは数百万円の返済義務だけ だった。

退院した時は大学の春休み直前だった。ほとんど学生の姿は見えなかった。

病院からその足でひとり大学に戻り、学生課の窓を叩いた。中退の意思を告げると、ベテランと思しき眼光のするどいおばちゃんが出てきた。病の事情と、保留状態であった3年次の1年間の学費はどうにかして月払いでも少しずつ支払うという相談をしたい、と僕は申し出た。

話を聞いたおばちゃんは一度引っ込んで、すぐ戻ってきた。中退の処理を行い、 3年次の学費は心配しなくていい と言った。どのような立場の人だったのかは今でもわからないが、その時に残されたはずの支払うべき学費はすべて打ち消されることとなった。

呆然としながら、大学の前のバス停で待ちつつ母へ電話した。残った分の学費は不要だと言ってくれたと伝えた時、母は泣いていた。こうして僕の大学生活は終わった。

返済と社会人生活と会社都合と無職

3ヶ月近い断食状態から社会生活を送るべく、まずは週3日、1日5時間程度の事務的なアルバイトから開始した。奨学金は学生を終えた瞬間から返済義務が生じる。月に1万8千円で支払っていく計画となった。

大卒というステータスは得られず、難病というハンデを負い、唯一といっても良かった「やりたい道」も途中で終わってしまった。だけど奨学金の返済は残ってしまった。

ここまで悲観的な話を続けてしまったけれど、当時はそこまで落ち込んではいなかった。

病院のベッドの上で「唯一望んでたような道が終わったなら、 これからはむしろ何を目指したって同じようなもの だ」と思えるようになっていたのが大きかったと思う。

5年ほどアルバイトをしてフルタイムでも働けるという自信がついたところで、一人暮らしをはじめることにした。同時に行った最初の就活で面接をしてくれた所に決まり、正社員として11年務めた。

難病によって途中の休職を挟むなどのイベントはあったけれども、職場では人間関係に大きく悩むことはなかったし、評価もされ、給料も少しずつ上っていった。中小製造業が弱みとする「パソコンに詳しい人がいない」というような部分に僕は落ち着いて、結果としてちょっとした情シスみたいなことをこなすようになり、 気がつけば当初願っていた仕事ができた のかもしれない。

今年の3月、その職場が解散となってしまった。

「解散はするが顧客に迷惑をかけないよう解散までは転職せず業務を行ってほしい」という要請が社員たちに通達された。実質的に転職活動を縛ることから、労使による話し合いを1年かけて行うこととなったが、 僕は労の立場も使の立場も正直な部分の話をされる ことが増えていき、常に具体的な話を進められるよう仲介をする立ち位置を担うようになった。

胃の痛くなるような1年だったが、結果として退職金は通常よりはかなり多く貰えたと思う。

4月になって本当に無職となった時、残された奨学金の書類を取り出してみると、残りはあと3年程度となっていた。だから退職金を使って一気に返してしまうことにした。

そのような流れで僕は長い返済を終え、今は大学中退の無職として過ごしている。

やれることをやってみよう

20年前、仮にこの僕の未来が見えていたらどうしていただろう?と考えることがある。

奨学金を借りるというのはある種の賭けでもある。返済の苦しさが強すぎるとか、大学生への負担はもっと低くするべきとかいう議論は色々あると思うけれども、ここではそういうことについて論じるつもりはない。

その当時の状況を事実として捉えるのならば、お金に無理があるならば大学生になるべきではない、と言う他はない。そういった理由で進学を諦めざるを得ない若い人が減った方がいいとは思う。それをどう実現したらいいのかは僕にはわからない。

どのような理由であれ、借りたのならば原則としては返すべきだと思っている。何らかの事変によってそれが免除されるといったことはあってもいいと思うけども、踏み倒すのは違うと思う。

奨学金を借りるのは、大学生をはじめるためだ。つまり、大学生活で学びを深め、いい友人を作り、大卒という肩書を得て、可能な限り理想的な場所で活躍できることを狙うからだ。では、それができなかった僕は「賭け」に負けたのだろうか?

自分が背負った返済が無意味なものだったとは思いたくない…… という防衛本能からむりやり価値を見出そうとしているのだろうか?

それでも、僕は大学に行ってよかったと思う。もっとうまくやれるだろっていう点はたくさんあったし、異世界転生的に「やりなおし」をするならば、お金のリテラシーをそれとなく両親に付けさせるみたいなことをするだろうけど、なにがどうあれそれ自体が失敗だったとはほとんど感じていない。

病になったことを含め、 そうでなければできなかった話や友人や体験 というのがたくさんある。

病院で「これからは何をやったっていいのだ」と思えたのは奇跡的ではなかろうか?

今無職となって、40歳を手前にして不安がないといえばウソになるけれど、なんだかこの先がちょっと楽しみだという感覚が持てているのはなぜだろう?

お金というのはとても大きい。お金がなければ「人生の視界」にそもそも入ってこない能力投資というものがある。そこはある意味で残酷だとも思う。

学生という立場に対しては、もっと理想的な形の社会にはなって欲しいとは思う。無理をして奨学金を借りろという主張をしたい訳でもない。ただ、僕のような一見ボロボロの結果だったとしても、 それが全て損だったと人生を呪うようなことには必ずしもならない ということは、どこかの誰かに伝えたいと感じた。

なにか凄い実績があるわけでもなければ、この先もっと苦しい人生になってしまうかもしれないけれども、この返済を終えた事実は僕にとって「 ひとつやりきった 」と思えるものになった。価値があるとするならば、それで十分なのだろう。

This post is licensed under CC BY 4.0 by the author.

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