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孤独になる意味 孤独になってはいけない理由

ある花火大会の日

その日は記録的な猛暑で…… と言ってみたところで、令和の夏のいつの日のことだと思われてしまうほどに、とにかく暑い。午前中に資格の勉強で出かけたその帰り、都区内といっても普段は人の集まるところでもなければ、強いて目的地になるようなこともほとんどない最寄り駅に、明らかなほど多くの人達が下車していた。

数少ない駅前のお店というお店も、店頭で飲み物だとかを臨時な形で並べている。その時に「花火大会があるのか」ということに気がついた。こんなところがメインの会場になるのかなどと間の抜けた驚き方をしつつも、まだ自分がこの地に一年程しか住んでいなかったことも改めて考えることとなった。

新型コロナだったりそのあたりの問題もあって、おそらく昨年は開催されていなかった…… のだと思う。いずれにしても僕は花火大会にほとんど興味がないんだなと思いながらそのまま自宅を目指した。

花火が嫌いという訳でもない。小さい頃の実家は浦安市にあって、毎晩川沿いの土手にあがればディズニーランドの花火が見えていたし、遠くながらその音も楽しめていた。窓を閉じていてもかすかに聞こえてくるような、一種の時報代わりだなんて家族と会話していたのを覚えている。

もしかしたらそうしたことで花火に慣れちゃってるから興味を示さないのも、とか思いながら駅前の公園を横切っていた時、ふと気がついた。

僕は花火に興味がないのではなく、 ひとりで花火をみることに興味がないだけ だったのだと。

興味は本当に「自分の性質が発露したもの」なのか

最近のブログエントリで『私立VRC学園』のことを書いていたが、たしかに新たな友人ができた。

ここのところは友人と一緒にサバイバル系のゲームやマインクラフトなどを楽しんでいる。VRCもうまく楽しみ方が分からなかったけれども、特に何か用事があるという訳でなくとも立ち寄れるような友人ができたことでログインの率はかなり上がったはずだ。

そうした状況の変化は実感という言葉では足りないほどだとも思う。これらのことが重なって、公園を横切った時にまとめて思考がほとばしったのかもしれない。

長らくPCゲームをひとりで遊ぶことが長かったし、自分はどちらかというとそういう性質の人間だとも思っている。それはそれとして、ならば 彼らと遊んでいる今という状況は何なのか という疑問が残るのだ。

この帰り道、もしとても大切な彼女なり奥さんなりが隣で一緒に歩いていたとするならば、 僕は同じように花火大会への興味を持たなかっただろうか?

僕は自分の性質として花火大会に興味を持たなかったのか? マインクラフトが本当に好きで仕方なく自発的にはじめたのか?

どう考えても、答えは否だった。たぶん同棲している彼女っぽい人だとかがいればきっと、近くで開催される花火大会をそもそも事前に知っていただろうし、一緒に見に行くなり、部屋から眺められる作戦を立てるなりしていたのだろう。興味津々だったに違いない。

マインクラフトだって確かにひとりで遊ぶこともある。けれど、過去にハマったときのことを考えればやっぱり友達が同じサーバーで遊んでいるからだと答える他はない。

「この人とコレをしたい」という形の興味が厳然と存在する ということに、いい歳してようやく気づくことになってしまった。それが、この厳しい暑さの8月。都内の花火大会の日であった。

孤独は自分の興味を狭めるのかもしれない

ひとり物事に没頭するというタイプの人もいるだろう。だから、孤独それ自体を否定しようとは思わない。

それでも、どちらかというと怠惰の方向で人間関係を避けてしまうならば、自分の広がりという可能性が狭まっていくことになるのだろう。自分だけなら別にいいやと考えてしまう事柄が、僕としては世の中に多すぎる。

流されて孤独になってしまうのは、もしかしたら良くないことなのかもしれない。孤独になるのも、孤独ではない状態になるのも、どちらも能動的でなければ価値は生めないのだろう。

その孤独は、何かを成そうと努力に沈むための孤独か。思索に集中するための孤独か。

もう長いこと「自分が本当に興味が持てることはいつか見つかるはず」と思い込んで生きてきてしまった。何か自分の性質が発火するその時が来るはずなのだと。それは趣味も、仕事も、生き方にも通じてしまっていたのだと今更ながら痛感する。

結局、花火大会を見ることはなかった。このパソコンの前にある窓をあければ、そこにはきっと七色に光る感動的な夜景が広がっていたことだろう。

This post is licensed under CC BY 4.0 by the author.

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