VRC学園12期を終えた
学園の日々の日記は遅れ気味で、これを書いている7月16日朝の時点ではまだ学園祭のことまでしかアップロードできていない。
卒業式を終えて一晩経ち、忘れないうちにクラスメイトへ願うことを書き残しておきたいと思う。
生徒挨拶
入学式では一番はじめに自己紹介をし、卒業式では一番最後に挨拶をした。
思ったよりみんなの挨拶が短くまとまっていたので少し悩んだけれども、伝えたいことを遠慮なく話すことにした。
それでもあまり長くしてはいけないと考えて手短にしたから、ここではもう少し具体的な真意を続けていきたい。
「幸せになって欲しい」とは何か
僕が最後の挨拶で伝えたのは以下のようなことだった。
- クラスメイトのみんなは今後少しでも幸せになっていって欲しい
- 人生で「何も起こらないという意味での平穏」は不自然なことで、それはありえない
- 2週間という新たな縁に挑んだみんなは少なからず悩み傷つくこともあったはず
- そのようにして常に「良いことと悪いことは表裏一体」であることが認められる
- 「何かが起こること」が自然な人生であるのならば、今後苦しいことだって待っている
- それらを全て価値に転換しろとまで言うつもりはない
- 壁にぶつかった時には少なからず価値にできる部分もある
- それをこの2週間の中で体験したことをその時に思い出してほしい
- なにかが起こっても、最後にはどこかで負けずに踏ん張れるようになることが「幸せ」のひとつの形だと考える
- 少なくとも僕にとって将来のひとつの「支え」となったことは間違いない
- そのように人の(少なくとも僕の)人生を変えていく力がみんなには備わっている
人の縁は具体的な現象である
例えば結婚とか彼女とかの問題にしても、それらはどこかで自分から掴もうとしなければ得られない縁なのかもしれない。VRC内で気軽に絡める友人をどう増やすかといったことに悩んだり、現実でも会話の中になかなか飛び込んでいけないと悩んだりするのも、実のところは自分次第だと捉えるもの…… と多くの人が頭では理解しているのではないだろうか。
例えば、 今から1年間同じ部屋で過ごす人がひとり増えたら
または これまでの1年間でもう一人一緒に過ごした人がいたのなら
を想像してみて欲しい。それは結婚相手かもしれないし、子供かもしれないし、ルームメイトかもしれない。いずれにしても、1年間たったひとり身近に過ごす人が増えるか否かで、かなり生活が変わるだろうということが想像できると思う。少なくとも、全く変化しないということはないはずだ。
このことから分かるように、 たったひとりの縁は人生を変える 具体的なちからを持っている。
なぜ『私立VRC学園』に飛び込んで良かったと思う人が多いのかといえば、それは短期間とはいえ複数の人と身近な存在として多くの時間を共有したからに他ならない。もちろん、その効果の大小はあるだろうし、人によっては残念ながら良くない結果として少なからず人生に影響した、ということもあるだろう。
このことは『私立VRC学園』に限ったことではないが、インターネット上という条件や、学園という舞台背景を通じて、クラスメイト同士が極めて対等な付き合いを始められるのが大きいのかもしれない。
そこには会社組織のように指示がある訳でもない。家族のような側面の当然な関係性という訳でもない。何もない者同士でありながら、一種の目標を共有した者同士として、自分から関係性を結んでいくという行為を生まざるを得ない。
そのようにして僕たちは2週間かけて、自分の縁を自分の力で結ぼうとしてきたのだ。具体的な実践として。
それが、互いの人生に影響を与えないはずはない。
表裏は観念ではなく厳然と存在するもの
『星の王子さま』を執筆した アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ は、戦闘機乗りだった自身の経験を基にした『人間の土地』という作品を残している。彼は実際に戦争に出撃しているし、その中で創作活動も行っていた。
極限状態に置かれた人間は醜悪さが露呈する
といったことは一般的によく聞くことかもしれない。
だけれども、サン=テグジュペリはその逆の体験をその身で示した。僚友とともに砂漠へ不時着し、食料も水も確保できない状態で死の目前まで何日も遭難し、極めて運良く助け出されたというその経験によるものだった。
彼らはそのような極限状態の中でむしろ同じ方向にある目的を見据え、互いに信じ助け合うという体験を得られたのである。サン=テグジュペリが『人間の土地』で描いたのは、 極限状態に置かれた人間が人間らしさを忘れないこと
という、世間の諦めたような見方とは真逆の、人間讃歌であったのだ。
僕はかといって、人間讃歌だけが人間であるとは思わない。もちろん、醜悪な面が出ることもたくさんあるだろう。 その両方が備わっているからこその人間 だとも思う。
だから、物事に表裏があるというのは単なる観念ではない。常に厳然と存在する概念であり、また現象でもあると思う。
人のことなんて変えられないと言うけれど
あくまでも処世術として 人のことは変えられないのだから自分が変わろう
という指針を見かけることはあるだろう。僕もそれはなかなかいい指針だと思うし、心がけるようにしている。人に期待しすぎて失礼な行動をつい取ってしまうこともあるし、誰かを簡単に諦めるとかいったことではないにしても、やれる範囲でまず自分のことに取り組んでみるのは悪くない。
けれども、時々本当に他人を諦めたかのような視点で語られることもあるように思う。
この記事の初めの方にも書いたように、たったひとりの縁が増えるだけでも、その人生は変化していく。特段何かをしたかどうかに関わらず、縁が増えるということはそういうことなのだ。つまり、もうその時点で 人のことを変えている
のがそのまま事実なのだ。
12期4組のクラスメイトのみんなは、思慮深く、謙虚で、そして勇気を持って現状を破ろうとした人達であったように思う。だから、それぞれがそれぞれの人生に影響を与えた。
何か劇的なことをしたり話をした訳ではなかったかもしれない。それでも、互いを見つめ合うようなものではなく、『人間の土地』に出てきたパイロット達のように、同じ方向を向いて挑んできたからこそ、僕たちには縁が生まれたのだ。
2週間を振り返った後に 「もし参加していなかったら」 を想像してみれば、全く違う2週間の日常を過ごしていたことは想像に難くないだろう。僕たちは既に「互いのことを変えていた」のだ。
(もちろん、そうでもなかったという人もいるだろうし、そうでなければならないと言うのでもない)
「平穏な人生」とは何か
大切な人を思って「平穏な人生」を願うことはある。
けれどもそれは「何も起こらない人生」を願っているのだろうか?
正確に言えば「何も問題に悩まされない人生」を願っているのだろうか?
しかしながら「何も悩まない人生」は幸せと言えるのだろうか?
残念ながらたった1年を想像しただけでも、 何も起こらないという方が難しい のはすぐ分かる。自然現象と言ってもいいのかもしれない。普段そこまで考えてはいないにしても、そのような意味での「平穏無事」を願っている訳ではないだろう。
何かが起こるのが自然な人生であるのなら、良いことも悪いことも起こる。むしろ、様々な出来事の全てが良いことだったのか悪いことだったのか判断すらつかないことの方が多いのかもしれない。
少なからず人生の縁を増やし、僕の人生に変化をもたらしてくれたクラスメイトには、僕は幸せになって欲しいと願う。願わくば平穏無事であれと願う。
これから起こる様々な出来事に、 少なくとも負けはしない という強さあれと願う。
人の縁が具体的な現象であること理解し、物事には厳然と表裏があることを知り、誰かの人生を変えられる程の勇気を出せるのならば、それは可能なはずだ。あなたたちにはその力がきちんと備わっている…… ということを僕は伝えたかったのだ。
自分から縁を結ぼうとする勇気
ぎこちない初日から、強引に挨拶を挟んだり、変な話をして気を引いたりと不器用なことばかりしてきてしまったように思う。なんだか面白いと言ってくれる人もいたけれど、実際のところはかなり無理をして「ピエロ」を演じてしまったようにも感じている。
それでもそれは僕なりの勇気の現れだったと思うようにしたいし、そう思えるのはこうした行動を寛大にクラスが受け止めてくれたからだと考えている。普段の仕事や生活では、こんな形の勇気の出し方はあまりしてこなかった。
だからこそ、この勇気の出し方は今後も忘れないようにしたいと思える。
縁を増やそうとするならば、人生が変わっていく。それは同時に関わる人の人生も変えていく。
その力が自分にあると信じられるのなら、きっと「負けない日々という幸せ」に近づけるに違いない。