私立VRC学園というイベント
「メタバース」よりも前から存在する実質的なVR文化
VRC学園12期のクラスメイトと入学式を終えて
VRヘッドセットを頭にかぶり、架空の空間へ飛び込んで様々な人と交流する…… などと聞けば、一般的な社会においては「 メタバース 」ということばを思い浮かべることだろう。
いわゆる社会的な説明という意味ではそれで良いが、普段からあまりVRに馴染みのない多くの人々にとってみれば、そうは言ってもVRそのものを体験したことがない…… というのが実態であるに違いない。
もしあなたがゲームやVR技術に対してニュースなどで少し聞いた程度の知識しかなかったのであれば、メタバースは少し下火になってきたという印象を持っているのではないだろうか?
ここでそのような印象に対し、ひとつの訂正を試みたい。
「メタバース」ということばが広まったのは、VRで遊び続けていた人たちから見れば比較的最近のできごとなのである。
FacebookがMeta社になったことでこの広がりは(やや強引に)後押しされることとなったものの、彼ら(Meta社など)が想定している「メタバース」はどちらかといえば リアルの自分に近しいアバター を仮想空間に作り出して楽しむといった側面が強かったように思える。
それは、古くからVRの仮想空間で交流をしていた人たちとは、 実態として異なる感覚 だったのである。
僕がいま使っているアバターです
『 VRChat 』という名のゲームソフトがある。コミュニケーションアプリと呼んでもいいのかもしれない。
PCゲームを幅広く取り扱う第一線のプラットフォームであるSteamでも無料でインストールできる。やや雑な紹介とはなってしまうが、VR技術で昔から実質的な交流をする場と言えばまず『VRChat』の名が挙がるほどスタンダードなものとなっている。
実はVR機器がなくともデスクトップ画面上でアバターを動かして交流に参加することもできるので、その間口は広い。
一般に「メタバース」ということばが持っている印象とは少し異なり、『VRChat』で使われるアバターのほとんどは、プレイヤー本人からはかけ離れた見た目をしていることが多い。
アニメ調の女の子のアバターを使う人が多いという印象を個人的に受けているが、そもそも人間じゃなかったり、生物ですらなかったりする。
また、アバターは1種類に限定する必要もないし、いくらでも変更できる。声だって変えて参加する人もいるほどだ。
そして、Metaのような巨大企業の「仕掛け」による走り出しというよりは、技術的に様々なことを試してやろうという人たちの自発的な集合が土台となり、有り体に言えば 「押し付けがましくない」文化として育つこととなった のである。
もちろん巨大企業の貢献がなかった訳ではないし、それどころかハードウェアの面でかなりのコストを投じて熱意ある製品が生み出されてきたのは無視できない。Steamを運営するValveが開発したIndexや、それこそMeta社が開発したQuestといったVRヘッドセットは性能向上と価格低減を実現し、PCを不要とするといった環境も作り上げ、VR人口の増加を後押しした。
ここで語りたいのは、そのハードウェアを使う人達が浸っている文化のことなのだ。
メタバースを推進するとは何なのだろう?
リアルの自分に近しいアバターばかりではない、という文化が『VRChat』などには存在している。それを以てして実質的なVR文化はこちらの方にある!!とまで断定するつもりはない。また、あらゆる種類のアバターを使ってひたすら「本人」を隠すことこそがそうなのだとも思わない。
『VRChat』は自由すぎるとも言える。だからこそ枠組みを整えようとする動きもあるのだろう。自由すぎるが故に、仲間を見つけるのも難しいという側面がある。文化には「場」が必要だと言われるが、その「場」ですら仮想空間の設計として自分たちで行う必要があるからだ。
そうした場は「ワールド」と呼ばれ、最低限のルールを満たせればどんな空間を作ってもいい。ワールドは作者が許せばあらゆる人が何個でもコピーして作り出せる。そのコピーされたワールドは一時的な存在として起動し、仲間や参加者を募って利用され、その場が終われば消滅するようにできている。とてもインスタントなものとして作用する。
誰でも参加できるワールドとして作成されることもあれば、仲間内だけで利用できるように制限される場合もある。そのあたりの利用方法だってとても自由だ。だからこそ、自然な流れとして 仲間内で交流する場に参加することが段々と増えていく という構造になりやすい。
『VRChat』でよく語られる問題点として、新たに興味を持って始めた人がいつまでも孤独なままだということが挙げられる。
長らく『VRChat』で過ごしたプレイヤーは、それぞれ自分なりの文化圏を作り上げるか見つけるかしている。閉じこもっているというよりは、自然な流れとして毎日見知った人たちと会っているというだけなのだが、日々ワールドを立てようとするとき、常に全世界に向けて開放状態な設定にする方が不自然となるのは想像に難くないだろう。
そうした「流れ」が積み重なって、時が経つほど新たに始めた人にとっては 「似た趣味を持つ日本人が集まっている場所」をなかなか見つけられない という問題が出てくるようになった。
もちろん、その問題も個人の努力次第ではある。しかしながら、特に私のようなコミュニケーションへの自信が薄い人間にとってみれば、見知らぬ集団へ飛び込もうとするその行為自体が難しいのも事実なのだ。
仮想空間でなりたい自分になれるとは言ってみても、そこにいる根本的な目的がコミュニケーションである限り、孤独では意味がない。だが、その孤独を破る壁がなかなか厚いのだ。
私立VRC学園が目指すもの
色濃くもオープンな文化である「メタバース以前からのVR活動」は、その構造から新規参加者の孤独を生みやすい(または別の文化圏がなかなか目に止まらない状況となっていく)という問題を抱えることとなった。
そこで、共通の場所で得られる体験を通して 普段会わないような人々と知り合える場所を提供するイベント として生まれたのが私立VRC学園である。学園とは名がついているが、開催に関わる全ての人が『VRChat』の単なるプレイヤーであり、全ての運営はボランティアの形で進められている。
どうかクラスメイトの皆が最後まで楽しめますように
私が参加したのは12期で、1期あたりおおよそ2週間という期間を「クラスメイト」と共に過ごすというものだ。期を重ねるごとに規模が大きくなっているようで、今では1期の生徒だけで100名が参加し、18人程度の6クラスが存在している。
そのクラスに複数名の「担任の先生」が付く。また平日に毎日1つずつ開催される授業は専任の講師が行うので、担任の先生とはまた別だというのだから、1期に関わる人数の大きさに驚かされる。
そのような人数を対象とし、2週間ものイベントとしてこれまで12期もコンスタントに開催してきたというのは、そうした経験の少ない私にとってその労力を全く想像できない。
参加に向けた説明会や、参加対象者の抽選。入学後の連絡体制や運営組織の構築の仕方など、これが本当にボランティアなのかと疑ってしまうほどしっかりしている。入学式をスムーズに終えて、他のクラスも同様だったということを聞き、この文章を書いている中で段々とその凄さを実感しつつある。
目的はコミュニケーションにある。あくまでも学校という体裁のイベントであり、授業による学習効果を最も期待するものではない。VR機器を揃えて数日という人もいれば、数年遊んでいる人もいる。場合によっては講師よりも生徒の方が学習内容に詳しいということもあるだろう。全く見知らぬ20名近い人間が同じ教室に集まり、互いに許容しあいながら親睦を深めようというのだ。
当然ぎこちなさはあるし、不安も大きい(担任の先生は特にそうだろう)。もしかしたら、くだらないと感じる人もいるのかもしれない。だけれども、入学式を終えて私が感じたのは「これほどの善意のかたまりを見るのは久しいな」というものだった。
まだまだ結論を出すべきではないと思うものの、この自発性と挑戦への許容性、不安の中にあるオープンな精神が、私にはとにかく優しいものであるように感じるし、「これがメタバースの意味するところだったらいいな」と切に思う。
コミュニケーションの壁に挑む
『VRChat』を最初にインストールしたのは2018年5月のようだ。そこからの期間はほとんど参加していなかった。理由は明らかに「孤独」にあった。知り合いとワールドを巡るような機会はいくつかあったものの、新しいVR上の友人はできずじまいだったからだ。
パブリックなワールドに突撃して、誰かと会話をしてみようと思うも、その環の中に向かって挨拶ひとつするのが恐ろしい。ワールドのデザインを見ている風を装って誰にも声をかけぬまま退室してしまうなんてことばかりを繰り返しているうちに、知り合いに合う以外では段々と『VRChat』を起動することがなくなってしまった。
このコミュニケーションへの自信のなさは、明らかにVRだけのものではないことを自覚していたので、どこかで何らかの挑戦が必要だと思っていた。仕事を失って時間ができたこのタイミングで私立VRC学園のことを知り、共通の場があるのならば自分でも少しは挑めるかも知れないと考えたのが、参加したきっかけとなったのだ。
幸いにもクラスメイトは盛り上げてくれる人が多かったように思う。いつまでも受け身ではいられないと思うので、思い出深い場となるように、自分からも挑みたい。